トンボのをる風景          結城哀草果

 昨日は一日風邪氣味で寝こんでしまって、二三の耒客にも面会を謝して、しづかにしてをった。今日はそのおかげでたいへん氣分がよいので、書斎に行火を入れて書きものをしやうとしたが、外は雨後の晴天で空氣も乾燥せず、きはめてなごやかである。こんな日には散歩すべきだと、俄に氣分を替へて足袋とモンペを穿き、頸に毛絲の襟巻(この襟巻は中川一政畫伯のデザインで、原阿佐緒女史が手編みにして、つとめて身をいたはれとて私に贈られたもの)をやって、出掛けた。門を出るとき、そこに一本立っている柿の木の上に、柿の実を椀いでゐた老妻が、
 「どこに行きます」
と頭上から聲をかけたので
 「散歩するんだよ、人間は毎日少くとも二里位を歩かんといかん、散歩は健康法なんだ」
といふと、彼の女は
 「そう」
と短かくいって柿の実を椀いでゐる。
 私は雨後のやはらかい空氣と日光とを心ゆくばかり吸いながら、村端から東の方向に直線にのびてゐる農道を歩いて行った。左右前後に拡がる田圃の稲が、すっかり納屋に運ばれて、がらんとした空虚にちかい眺めである。その前方に聳える蔵王山、雁戸山には、いまも雨雲がたむろして、頂がかくれて見えないが、低く重なり合ふ前山には明暗があって、こまやかな眺めである。そして日の当るところだけがけむってゐるやうにさへ見える。その山の裾にくっつくやうに山形市街が見えるが、市街と山裾を区切って、NHKの白い放送鉄塔が空髙く立ってゐる。私はこれらの景色を眺めながら、悠々と歩いて行くが、収穫の終わった後の農道を歩く農夫があまりゐないので、その視界と氣分とを妨げるものはなく、全く自分一人の散歩であり世界であった。
 私は三丁ほど歩いて来て、後を振りかへって見たが、そこには私の部落があり、私の家と土蔵と納屋とが見え、また柿の木も見えるが、柿の実を椀ぎをはったのか老妻の姿が見えない。部落の後に接近して、(そこには田圃があるのだが、それは見えないので)菅沢山が横伏しになり、その上に大森山、鷹取山が髙く重なり、やや低く日向山が見える。菅澤山の他はみな紅葉がすぎて、暗々と沈んで見え、その奥の方に髙く聳える白鷹山に雨雲がおりてゐて峰が見えない。菅沢山の後方の北側に、ピラミット形に立ってゐる富神山の南面に日が当って、そこだけ明るく見える。私がこのやうな景色をたのしんでゐると、農夫が二人鍬を肩にしてこちらに歩いてくるのが見えた。その二人は私の隣家の若夫婦の八郎君とオモエさんで、いかにも睦ましさうにして来るので、私はまた東を向いて歩いて行った。
 しばらく行くと小川があって、雨後のにごった水が音を立てて流れてゐる。川には今春新しく懸けたコンクリート橋があって、私はその橋に尻をついて休んでゐると、午后三時頃の秋日が照って、めぐまれたやうに暖かい。ところが軍手をはめた私の左手に、蜻蛉が一つ飛んで来て止った。こんどは膝のうへに来て止り、日が傾くにつれて橋の欄杆にたくさんの蜻蛉が止り、数十を数へるまでなり、赤い羽を平らめて日光を浴びてゐる。私は今日位に、蜻蛉を親しく身近に感じ眺めた事はない。

   (昭和29年12月 森林商報 新37号)

【結城哀草果[ゆうき・あいそうか]】(1893ー1974)
歌人、山形県生まれ。「アララギ」に入会、斉藤茂吉に師事。歌集「山麓」「すだま」「群峰」「まほら」など、主に農村の生活と自然をうたった。随筆集に「村里生活記」「農村歳時記」など。

 

結城哀草果:トンボのをる風景   自筆原稿
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