日本甲冑に見る蜻蛉の前立 鎧廼舎主人:山上八郎
そもそもわが日本民族がこの列島に移住して参りましたのは、少くとも六千年以前の遠い昔といはれておりますが、ここは極東の離れ島のこととて南北から或は西方から移住し来たって各民族は自ら融合して独特の民族と文化とを形作り、更にあとからあとから外国の新文化を採り入れてそれを己れのものとする努力をおこたらなかったのであります。
ただ日本民族といへども人類の通有性はまねかれず、平和を愛するとはいえ時にはお互いに***(編注:三文字判読不能)な戦闘を交えたことが、かつての日の実情でありました。従って日本の兵器――武具はまたこの島国に於て独特の発展を遂げたことは申す迄もありません。
さて兵器は古今東西を問わずこれを大別して攻撃兵器と防御兵器とに分けることが出来ますが、防御兵器として見るべきものは、いう迄もなく甲冑と楯で、しかも甲冑は自らその主要な位置を占めておりました。
かくて数千年来、日本の甲冑は時代時代によって面白い変遷の跡を示しておりますが、その由って来る所は何でありましょうか。これは主として
一、 攻撃兵器
二、 戦闘兵器
の変化に基く所であります。更に外国との戦争、外来文化の影響による所は一層大きいものであります。
とにかく日本甲冑の変遷の跡を顧ると、その複雑さ、その面白さ、實に興味の津々たるものがあるのであります。
そこで私はこれを便宜上左の三期に区別してその大あらましを述べて見たいと思ひます。
第一 カツラ時代
第二 ヨロイ時代
第三 具足時代
右の中第二のヨロイ時代は主として馬上で戦った時代であり、これに對し第一のカツラと第三の具足時代は馬にのらず、専ら徒歩で戦った時代であります。そして第一と第三とのちがいは、第一のカツラ時代は古代の日本には馬が殆どいなかったので、自ら徒歩戦をやったためであり、第三の具足時代には馬が十分にあって戦場迄は馬にのって参りますが、いよいよ戦闘の時は馬から下りることを立前としたのであります。
さて馬上のヨロイは相当重くても体にこたえませんので、随分重いものを用いましたが、徒歩のヨロイは軽くなくては耐えられません。
しかも単に軽いだけではなく、丈夫なヨロイは如何なる武人とても望む所であり、甲冑師は古来この点に苦心したわけであります。
先ず第一期のカツラはいふ迄もなく日本で一番古い形式のヨロイで、そのはじめのものは動物の皮を材料といたしましたが、大体二三〇〇年前、鉄の渡来に伴ひ、漸次鉄製のカツラを見るようになりましたが、現今古墳出土のものは素撲剛健しかも姿が美しく、かヽる立派なものは全く日本周囲の民族に見ないものであります。
次に第二期のヨロイは馬上のヨロイ――屈伸力のあるヨロイ――でありますが、これは今から一五〇〇年前、朝鮮半島で北方の強国高句麗――日本ではコマと呼ぶ――と戦ひました對外戦争――私は日高戦争と呼ぶ――になり騎馬戦と共に彼から受けたものを日本人の優れた頭脳によって改良また改良、今から八〇〇年前――平安時代の末期いはゆる源平時代――になりますと、大陸のものとは全く似ても似つかないような立派なものを作り上げました。まことに日本民族の誇りともいふべきものであります。
第三期の具足は六五〇年前の国難元寇により軍事上の大変化があり、特に山城の発達、攻撃兵器ヤリの出現などによって再び第一期のカツラ形式にかえったもので、約四〇〇年前に完成したものは特に「當世」を関して當世具足と呼ばれておりますが、現今普通見る所のものは大方これに属してゐるのであります。
所で日本甲冑の特色は何か、シナ、西ヨーロッパの甲冑と比較して如何なる點が相違してゐるか、これは皆さまの最も興味を注がれる問題かと思われますが、一言にして申せば、甲冑は実用品である以上、何れの國でも最もこの点に重きをおきましたのはいふ迄もありません。たヾシナや西欧の甲冑は実用品といふ以外に、余り頭を使っておりませんが、日本の甲冑は実用上の諸問題を十分に考慮してゐる外に、美と品の二点を忘れていない点が面白い。これはひとり甲冑のみでなく、刀剣、弓矢、馬具或は城郭にもはっきりと現れております。
さて甲冑の美はヨロイ時代には色彩の美――威(オドシ)と金物――を、また具足時代には形体の美といふ点を數へることが出来ます。
具足の最上部に位する免とりわけ鉢の形と立物に色々の変化の見られますのは正に信長秀吉家康の三雄を生んだ安土桃山時代の一大特色であります。
さて立物の種類には色々ありますが大別すると、第二期から引きつヾいた鍬形高角(タカツノ)系統のものを始めとし、各藩の合印(アヒジルシ)や着用者の家紋を現はしたものがあり、その外面白いのは色々の物事を現したものであります。
さて動物を象ったものでは竜と獅子とが有名でありますが、その外猪・兎・狐も多く鳥類・魚類これにつぎ、また虫類を象ったものには蜻蛉・蟷螂・亀などが著はれてゐます。
右の中蜻蛉を用いたのは、この虫が前へ進んで後へ退くことのないのを武士の精神にたとへて喜んだもので、蜻蛉を勝虫と称してゐるのもこれに基きます。なほ佐竹義宜が兜の前立に毛虫を用ひたのもこれと同巧異曲のもので、古来日本武士が攻撃精神を尚び、卑怯未練を排斥した気分をまことによく現はしてゐるものであります。
(昭和31年6月22日 森林商報新51号)
【山上八郎(ヤマガミ・ハチロウ)】
明治35年東京生まれ。「甲冑・武具研究」の第一人者として海外にも著名。昭和3年に発表した「日本甲冑の新研究」で学士院賞を受けた。「英文日本甲冑」「北条時宗」を始め、戦史、刀剣、紋章に関する著書多数。
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