【本文中 々々 は、原文では「く」字形の反復記号が使われています。】
とんぼ名義考 東条 操
語源を考える事は楽しいが、誰しも一通りの思いつきは述べるものヽ、さて成程と人に思わせるほどの説は一寸出せないものだ。やさしいものヽ名ほど一層むずかしいようである。
「とんぼ」の語源なども「大言海」には「とんばうの約」とあって、「とんばう」の条には、「飛羽の音便延…」とある。俗間語源説の「飛棒」は、仮名づかいも違っていて問題にならないが、この飛羽の説も、命名の心理から考えてみるとすぐにはいたゞけない説である。ある大学の試験で「とんぼ」の語源を求めた時、面白い答案が二つあった。一つは、この虫は垣根の先や竿の先や物の「とんぼ(先端)」にとまる習癖があるから附けたというのである。もう一つは、とまっている「とんぼ」に子供が、「飛べ々々」という意味で「飛ばう々々々」といったのがもとだという説である。前説は、「とんぼ」の古形が、とんばう」と長音であった事実と矛盾するし、後説は、子供が「飛べ々々」と囃すのがおかしい。馬鹿げた答案のようであるが、命名の手掛りを兒童語に求めて、あまりむずかしい理屈を考えない点に大学生の答案の価値がある。しかし、やはり思いつきだけで、これを証明する程のものはない。そこで、ちよっと方言の事実と蜻蛉の古語とを較べて考えて見よう。いうまでもなく、「あきつ」が奈良時代以前からある古名である。一応「秋っ虫」の義と考えられている。今日は、国の南北、即ち岩手及び南奥と宮崎、鹿児島、南島にあって、いかにも古語らしい分布である。次に平安朝では、倭名抄に「かげろう」と「ゑむば」が出ている。「かげろう」はあるかなきかに飛び交うさまが、陽炎に似ているからだという。奈良時代にも、万葉仮名の「蜻火」「蜻蜒火」を「かぎろい」と読んでいる。現在の方言で「とんぼ」を「かげろふ」という例は聞かない。ことによると、今日の「とんぼ」とはちがう虫か、又はある一種の「とんぼ」の名かもしれない。童蒙抄に「かげろふトハ、黒キとうぱうノチヒサキヤウナルモノナリ」とある。とにかく疑問のものである。「ゑむば」も倭名抄には蜻蛉の小なるものとしてある。語源は、白石は「八重羽」かと云っているが、あやしい。今日の分布では、九州の西北部、福岡、佐賀、長崎、熊本などに色々な形で行われている。昔は東国にもあった事は、仙覚の万葉集抄に見える。これは分布から見ると「あきつ」の内側にあり、やヽ新しい言葉らしい。
さて、「とんぼ」は平安末期に「とうばう」「とむばう」(発音はおそらく「トンバウ」か)として諸書に現れている。これも兒童語としてはもう少し古くからあったのではないかと思う。「とんばう」という音形を考えると、漢語か又は冩声語と見るのが至当であろう。平家物語延慶本に「東方」という漢字があてヽある。これにもとづいたのか、徂徠は、この「東方」の漢語から来たといっているが、これは漢学者のでたらめである。
そこで、いよ々々最后の「とんばう」冩声語源説となる。倭訓栞「とんぶり」の條に「津軽の辺には、蜻蛉をどんぶりといふ。信濃にてどんぶといふ。杜詩の點水蜻蛉欸々飛の意なるべし」とあるのがこれである。「とんぼ」はしば々々水辺に飛び来って産卵する特徴をもって知られている。青森、秋田、岩手で現在「だんぶり」「たふり」「だんぶりこ」岩手の下閉伊では、これと並んで「ざんぶり」といヽ、また「ざんぶ」「ざぶ」「じやんぶ」「じゃぶ」というそうである。変な落語のさげだが、「とんぼ」の語源は存外こんな所にあるのではなかろうか。
柳田先生の御説や、秋田大学の北条忠雄教授の説も、この説とちょっと似た所もあって面白いが、これは両先生から伺っていたヾきたい。
(昭和30年8月27日 森林商報 新44号)
【東条 操[とうじょう・みさお]1884-1966 】
国語学者、広島文理科大学教授、学習院教授を歴任。1940年、日本方言学会を創立、方言区画論を中心に方言を研究、日本方言学の確立に寄与。
著書に「国語学新講」「方言と方言学」「全国方言辞典」「分類方言辞典」。
|