※漢字、仮名遣いは原文のママ。但し略字体、旧字体、異字体及び明らかな誤字は替えてあります。
()内はルビ

「トンボ」意匠の工芸       田中作太郎

 「トンボ」捕りは、子供にとって遊びというよりも、楽しい仕事の一つといえる。夏の炎天下に夢中になってトンボを追かけ、手足はもちろん着ているものまで泥だらけにして家へ帰ったとたんに、叱言雷りが落ちてくる。でも翌朝になると、きのうの落雷の怖しさなどケロリと忘れ、また早くからトンボを追いかけた、というような子供のころの思い出は、深い浅いの異いはあろうが大抵の人が持っていることだろう。大人になっても四ツ目の竹垣の先端にしばし羽を休めているトンボを見て、つい手を出して捕えたくなるのも、こうした少年期のトンボ捕りの楽しさが頭の片隅に残っているためでもあろう。
 とともに、それが赤トンボだったりすると、子供のころにはなかった季節の訪れなどを感じ、ようやく「もののあわれ」を知るようにもなる。このようにトンボは、幼いときから壮年期、さらに老の坂を登り降りするまでの長い人生に、なんとなく親しみを感じさせるが、こうした親近感はわれわればかりでなく、昔の人達にもあったようで、したがって古くから詩や哥に現われてくる。雄略帝が𠮷野宮で狩を催されたとき帝の着衣の袖口から「あぶ」が一匹飛び込んだ。同時にトンボが飛び込み、それがとび去った後に「あぶ」が噛み殺されていたのを見て、帝は、トンボを讃唱された記事は、最も有名である。が、このトンボが工芸品に現われた例は割合に少いようだ。昨秋、京都の博物舘で開かれた平安美術展に陳べられた三脚付の鍍金の香炉は、古いものの一つであった。藤原末期の製であって、鉦を逆さにしたような形の側面に、秋草を彫り、その点景にトンボの彫りがあった。径二寸五分ほどの小さい器の狭い間に、この毛彫があったので、ガラス越しの展観では見落され勝ちだったとおもう。が同時に陳列された壷は、高さが一尺五寸ほどもあったので会場を訪れた人は見逃さなかっただろう。この壷は口が喇叭状に開き、胴が玉子形にふくらんだ形で、その頸部に「上」字と並んでトンボが一匹刻されていた。これは昭和十年ごろ神奈川県の川崎市の近くから発掘された、常滑の窯器とみられているものである。胴に片切り彫り風の瓜模様と並んで薄が線彫りしてあるが、その傾いた薄の彫り方が秋風に静かになびいているようで、有名な西本願寺の三十六人集の下絵をほうふつさせる美事さである。
 これらがトンボを意匠した工芸品の古いものであるが、時代の降ったものでは、室町末期製の鍔がある。それは縁が半球状に丸く盛り上った、いわゆる土手耳になった鉄質の円鍔で、一匹のトンボと大小三個の円とを切り透しにした、甲冑師造りのものである。トンボには勝虫の異称があるので簸(エピラ)にも時々使われているが、この鍔のも勝利の徴として意匠されたのだろう。また三個の円は、日月と星を象って、武運の長久を天地の長さに警えたものか。
 こうした偶意的なトンボ意匠では、法螺貝と蟷螂を縫い取りした陣羽織もある。これは江戸末の泰平期の製なので、したがって前の鍔のように実用のものであったとはいえない。が、法螺貝は周知のように戦陣の要であり、蟷螂は「牛車に刃向う蟷螂」の故語にならって強大さを示したものと考えられる。
 このほかトンボを現わした工芸品で思い出されるのは、朱地に緑と黄で彩った沢瀉を描いた漆絵の盆――江戸初期――、胴に羽を一ばいに拡げたトンボ一匹を鋳出し模様にした茶釜、また同じ茶釜の環付となったもの――いずれも江戸初期――などがある。また江戸末期のものでは、素焼肌に直接絵付した、漆の木地蒔絵の方法を絵付に応用したとみられる陶器――伊勢安東焼――のようなものもある。
 トンボはこのようにわが過去の工芸に表れているが、諸外国でもまた使われていた。古くから茶家の間で喧しかった十六・七世紀ごろ焼成されたと推われているアンナン製の茶碗に、トンボが染付けてあるのは人のよく知るところ。このほか中国清時代の雍正ごろの粉彩磁器に、十八世紀末のオランダ陶、十七世紀のイギリス陶にもトンボが意匠されているのを、例は少いが見かける。が、これら外邦工芸に示されたトンボは、単に草花などの点景として描き表わされ、鍔や陣羽織に表わされたような偶意を盛ったものではない。がともかく、トンボが世界各国の過去の工芸の題材によく使われているのは、トンボに対して誰れでもが一種の親しみを持っていたとも解されよう。

(昭和33年6月1日 森林商報 新64号)


【田中作太郎(たなか・さくたろう】
 元東京国立博物館陶磁室長。陶芸に関する著書、研究書多数。

田中作太郎:「トンボ」意匠の工芸 自筆原稿
※各原稿をクリックすると大きくなります。


トップへ戻る


tombo_each