※縦書き原文での漢数字は、読みやすさを考えて一部アラビア数字に直しました。仮名遣い等はママ。 東京における赤トンボ移動の観察 岡崎常太郎
○大正7年(1918)10月4日 前日の雨も、ようやく晴れて、日がさしてきた。午前10時20分ごろ、ふと気がついて見ると、赤トンボのおつながりが、四ッ谷鮫が橋方面から飛んできて、学習院初等科の教室の屋根を越して、東北の方向に進んで行く。風はわずかに吹いていたが、それに向かつて飛んでいた。どれも皆雌雄連結していて、同じ方向から飛入てきて、同じ屋根を通りこして、同じ方向に進んでいく。試みに数えてみたら、約30分の間に、屋根をこしたおつながりの数が、324であった。どのくらい飛ぶかと思い、ひぎつずいて数えたが、たちまち500となり、800となり、1000となった。勢は少しも衰えず、後から後からと、ひききりなく飛んで来るので、目がちらちらして、正確にかぞえきれなくなった。それでも、ひるまず、千三百数えた時、11時10分であった。さらに千六百数えた時が11時25分。そうして11時40分までに1740組敷えたが、さすがに盛んだった群飛も、そのころから衰えた。 ○大正8年10月8日 この日も同じ場所で、同様の群飛を見たが、この時も数日来の雨が全く晴れて、朝日が輝き、秋晴れの心地よい旧であった。午前8時40分ころから飛行が始まったが、試みに9時20分から同25分までの五分間数えでみたら、前年と同じ教室の屋根をこしたおつながりの数が、600であった。この日は10時半ごろに、飛行がほとんど終ったようであったから、飛行は約二時間にわたって行なわれたものと思うが、その数は大へんなものであった。そうして飛行の方向も、風に向かって飛んだことも、前年と全く同様であったが、今回はそよ風というよりも、少し強い風で、いくらか吹き流されるような気味であった。 その後私は毎年、ほぼ同じ期節に、同じような群飛を見たのであるが、その観察記録はすべて省略することとし、ただ大正の末期から昭和の初めにかけての数例だけを掲げることにする。 ○大正13年10月8日豪雨。翌9日群飛(観察地四谷) ○大正14年9月30日夜豪雨。被害大。翌10月1日晴天。群飛(四谷) ○同年10月15日快晴。群飛(四谷および代々木)ただし今回は前日の14日も快晴であった。 ○大正15年10月2日 やはり四谷学習院での観察で、前日の10月1日は朝雨が降り、のち曇天となり暗い日であったが、翌2日はよく晴れて、朝日が輝き、実に気持ちのよい日で、無風であった。午前7時45分早くも群飛を認めたが、それから二時間の間、数知れぬおつながりが、後から後からと、ひきもきらず飛んできた。10時10分ごろになって、大いに衰えたが、まだちらりほらりと飛んでいた。中庭から、はるかに見あげると、ゆみはり月が、中天高くあわい影をうかべ、近くはそそり立つ煙突の避雷針に朝日がさして、キラキラと光っていた。飛行は一分間に約150組ほどの割りで行なわれたようであった。 以上のほか多少異なった例もあるが、あまりに、わずらわしいから、さしひかえることとして、最後にもう一例だけかかげよう。 ○昭和4年(1929)10月5日 前日の4日は終日ドシャブリであったが、今5日はガラリと晴れた秋びよりとなった。午前8時半に芝公園付近の広町にさしかかったとき、何気なく空を見あげると、はるかに高く赤トンボの大飛行、全く黒雲天をおおうといっても決して言い過ぎではないほどの、驚くべき大群飛で、東北に向かつて、まっしぐらに進んで行く。その壮観、何といってよいやら、ただキモをつぶして見送るばかりであった。 さて、以上述べたような赤トンボの大飛行は、何のために起るのであろうか。それは、かれらが産卵のために、その地を目ざして飛び行くのであろうというのである。おそらくそれが事実であろうが、それにしても、かかる多数のものが、何所に発生し、いかようにして大群となるのであろうか。産卵のために飛行するとせば、飛行の終点には、その大群に産卵せしめるだけの地域があるのであろうか。問題はいくらでもある。広く各地にわたり、多数の人々の観察によって、この自然のクイズを解きほぐしたいものである。 (昭和35年10月5日 森林商報 新73号) 【岡崎常太郎(おかざき・つねたろう)】 都筆は東京高等師範生物学科を卒、学習院教授、東京市視学、日本赤十字社博物館長を歴任し、晩年は、閑地にあって後進を指導し、また関東地方の昆.虫相の究明に活躍された。 |
岡崎常太郎:東京における赤トンボ移動の観察 自筆原稿 |
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