蜻蛉の眼玉        小熊 捍
 蛙の眼玉に灸すえて、ということはあるが蜻蛉の眼玉は幸にしてまだそんな目に遭ったことは無さそうである。だが実は蛙の眼玉なんて何の変哲もないもので蜻蛉の眼玉こそ何にかに取り上げられてもよいのではなかろうかと思っている。実はそれ程此の眼玉には特異な点がある。何にしろ体の大きさから見て全く無類といゝたい程大きなものであるし、左右の眼にはさまれた顔なんぞは誠にちんまりとした存在でしかない。
 此の眼玉は単に大きいというばかりではなくて色々と面白い問題を提供して呉れる。誰でも少し注意深く見る人なら充分に気がついていることゝ思うが、体を水平の位置に置いた場合に、眼の上方部半分は下の方の半分と全く色が変っている。私は若い頃この点に大変興味が湧いてそれの組織を研究したことがあった。その結果を摘んでいえば、上方部を構成している小限(蜻蛉の眼は学問上、複眼というもので、無数の単位的小構造の集りで、此の単位構造を小眼と呼んでいる)は、下方部の小眼に比べて形が大きいばかりでなく光線の吸収を調節する色素にも著しい相異が認められた。つまり一個の複眼は、たとえ外観的には一個にまとまっていても真実は上と下と二つの別個の眼を区別すべきである。
 それでは何故蜻蛉の眼玉は単に大きいというばかりでなく、このような二重の構造をもっているのであろう。私の推論はこうである。それは小眼の構造から判じて上方部の眼では微細な影像を結ぶことが出来そうもない。ただ大ざっぱに大きな像をつかむだけであろう。これに反して下方部の眼は確かに細かい像をうつしとることが出来そうである。
 夏の間、庭に出て蜻蛉が竹ざを等の先きにじっととまっている所を観察すると、彼は眼ばかりと云ってもよい頭をぐるぐる廻して何物かに注意を払っていることがわかる。つまり下方の眼は餌になる小虫を探しているにちがいないようだが、地面という暗い背景では眼底に結ばれる影像が余程精密でないと目的を達することが出来ない。下方の眼の構造は全くそれに適している。所がこのように餌を探している間でも、上の方の注意を怠るわけにはゆかない。鳥という大きな恐ろしい敵がいるからである。然しこの方は空という至極明るい背景の中に頗る大形の像として表はれるものだから、極く大ざっぱな影像が出来れぱそれでよい筈である。だから上方眼の構造がこれに間に合うように出来ているのにちがいない。人間にして見れば、顔にあって常に前方を見る眼の外に、後頭部に後方だけを見る眼があるようなもので、何とも都合がよい次第といはねぱなるまい。
 一つの眼玉が上下の二部に分れるということが一層進歩すれば、この二つの部分が完全にち切れる場合があってもいゝであろう。実はそういうものもあるので、あの水面をくるくる走り廻っているミヅスマシという黒い小虫がそれである。この虫は水の表面にいて、一方では水中を、一方では空中を同時に視ている。そして眼玉が完全に上下に分離しているから結局四個の眼玉があることになる。四つ目小僧というところであろう。
 蜻蛉の眼玉は機能的には全くミヅスマシと同じであっても、見せかけは飽く迄普通の二つ目として胡麻化している。矢張り御灸をすえる方がいゝかもしれない。

(昭和31年4月17日 森林商報 新50号)

【小熊 捍(オグマ・マモル)】
 明治二十年生れ。昆虫学を専攻し農学博士。北海道帝国大学卒業店、同校の教授となり、同理学部長。低温科学研究所長、国立遺伝学研究所長を歴任した。


小熊 捍:蜻蛉の眼玉  自筆原稿
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