※原稿に「新カナに直してください」とあったので、該当するところは変えてあります。

 東京のトンボ、信州のトンボ    大岡昇平 

「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち」という歌が昔からあって、蝶々とトンボはとかく一組と考えられがちだが、僕の子供の頃は、あんまり蝶々は追っかけなかった。変な箱をぶらさげて、ふわふわした網なんか持ってる奴を見ると、「なぐってやろうか」なんて相談もまとまりかねない勢であった。つまり蝶々捕りは女の遊びだが、トンボ釣りは男の仕事みたいなつもりでいた。四十年も前、小学校へ上ったばかりの頃の話である。
 その頃僕の家は、今の渋谷駅の裏口の辺にあって、渋谷川は暗渠になっていなかったし、夏の夕方モチ竿を持った悪童達が、河岸に並んで、水面を飛び交うトンボヘ目がけて、懸命に竿をのばした。
 ムギワラなんてトンボはみそっかすで、ねらうのは、ギンチョ、キンチョ、ヤンマなんて大きな奴ばかりだった。ギンチョとキンチョは雄雌で、こいつのつがったのを刺すのが大当りだった。
 渋谷から青山へ上る宮益坂の途中に、「トンボ屋」という食料品店があった。子供にはあんまり縁のない店で詳しいことはわからないが、洋酒やバターなんか酒落れたものを売っていたし、店に西洋画がかゝっていた。そこで売り出していたのかどうかもはっきりしないが、角砂糖の中へ粉末のコーヒーを仕込んだのがあった。一つの面にトンボの形を打ち込んであって、「トンボ、コーヒー」といっていた。値段はたしか二銭ぐらいで、これを一個お湯にとかせぱ、コーヒーになるという仕掛けだ。トンボのマークがトンボ釣りの子供に気に入って、二銭は大金だったけど、よく無理をして買った。
 赤トンボが出るのは、夏休みも終りか、終りかけている頃で、あんまりうれしくないトンボだった。それに数が多すぎて、捕る方で張り合いがない。トンボはやっぱり数の少いヤンマとギンチョだった。
 信州の赤トンボを見たのは、よほど後のことだった。発哺温泉は深い谷に臨んでいる。その谷が赤トンボで一杯になるのは、海抜千六百米の志賀高原では八月の十日頃である。夕焼空に高く小さく、眼をこらさなければ見られないほどの高さに、やんやん飛んでいるのは壮観であった。
 こっちはもう子供じやないから、捕ろうなんて気がない。そういう風に鳥か飛行機みたいに飛んでるトンボが、見ていて胸がすくような感じだった。
 「蝶々トンボも鳥のうち」とはじめの歌に戻って、話はおしまいである。(終)

   (昭和33年8月 森林商報 新65号)




大岡昇平:『東京のトンボ、信州のトンボ』  自筆原稿
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※原稿をクリックすると大きくなります。 3b 3a

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