トンボ・星 野尻抱影
闇に明滅し、星空へも高くまぎれ入るホタルなら、自然と星にも結びつくが、トンボとなると、星との連想はどうも遠い。それに、ギリシャ・ローマの神話や文学にも、降って泰西の伝説・文学にも、また印度や中国のそれらにも、ほとんどトンボに関する文献は発見できないようである。どうも、この昆虫は日本書紀に、形を「アキツのトナメする如し」とたとえた日本の国特有のものらしい。永く外国にいた画家や外交官の記憶をただしてみても、やはり同感だった。 と言っても、西洋にも全然いないわけではないが、ドラゴン・フライなどの英名も、ひどく散文的であるし、米国の俗語では、ホース・スティンガー(馬を刺すもの)で、とても日本のような童謡や、俳句の対象となる可憐な生物ではない。 もし、これを強いて星に結びつけるとなれば、夏から秋、天の川の中に美しい大十字を描く白鳥座だろう。丹波地方では、「十モンジサマ」と呼んでいる。これをトンボの形と見、トンボ座と呼べないことはない。しかし、雄大に過ぎる難はある。もっとも古世代の化石には、羽根のはじからはじまで十フィートもあった巨大なトンボもあると読んだが。 私の遠い思い出をたぐれぱ、子供のころの夏休みは、よく横濱から川崎在の農家へ行って過ごしていた。今では京濱間の工場地帯だが、当時はカシの大樹が深ぶかと茂った農村で、まばらな家々は、サンゴ樹の高い生垣をめぐらしていた。この生垣の広葉に、日が暮れると、無数のシオカラトンボがとまる。それをネトンボといって、明るいうちの夕食の後、一まわりすると、面白いようにつまんで捕れた。 やがて、とっぷり暮れると、まだランプ時代の田舎は、まっ暗になって、ホタルの青い火が涼風に流れ、空は一面の夏の星で、天の川もあざやかに現われていた。それを見上げて、子供らしい郷愁を感じたのだが、そういうトンボの生態を見たのは、その当時だけだった。 なお、子供のころ、私たちはトンボを捕るのに、片手で大きく輪を描き、それをだんだん小さくして行くと、トンボの目がくらんで、たやすく捕まると信じていた。ところが、私の長男が小さかったころは、「コールイ!」とトンボに向かって呼びかけていた。そして、何の意味かと尋ねても、友だちから教えられたというだけだった。 それが本誌十一月の「とんぼのうた」に、出雲地方の「トンボツリ」の歌の「コナオンジョコウライ」は、「こな勇将高麗」の意味と解してあるのを読んで、はてなと思った。あるいは、これと似よりの歌が、昔は広く分布していて、「コーライ」だけが「コールイ」と訛って伝わっているのではなかろうか。これは、民間伝承の研究家の間には、すでに考証されていることかも知れない。本誌を通じて教えを乞いたいと思う。 終りに、話はトンボを離れるが、太陽系の最も外をめぐる冥王星(プルートー)は、一九三〇年に米国ローエル天文台の学者、トンボウ氏が発見したもので、この名はすぐトンボを連想させて、誰でも一度で覚えてしまった。 戦后、私が義宮さんに星の話を申上げた時に、プルートーのこととなると、すぐ「トンボウという人が……」といわれた。殿下もやはりトンボから覚えられたに違いないと、今でも思い出して微笑することがある。 これなども、トンボがチョーチョーとともに、日本て最も親まれている一例だろう。普は、羽織のひものトンボ結び、お国家老のキンカあたまのチョンマゲも、とまったトンボに比せられたものだった。 (昭和31年2月 森林商報 新49号) 筆者野尻抱影(ノジリ・ホウエイ)氏は、明治18年横浜の生まれ。早大英文科を卒業して教職に就き、のち諸雑誌の編輯部長を歴任、終戦后は専ら著述生活に入る。星座に対する親しみは神奈川一中時代に始まり、日本伝承の星名数百種を蒐集発表し、著書の数は五十余冊に及んでいる。主なるものに、「星座巡礼」、「星と東西文学」、「星座神話」、「星座図志」、「日本の星」、「星と伝説」、「星恋」、「星三百六十五夜」などがある。新惑星プルートーの邦名「冥王星」は氏の提案によるものである。 |
野尻抱影:トンボ・星 自筆原稿 ※原稿をクリックすると大きくなります。 |
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