【本文中の()カッコ内は原文では振り仮名です】
蜻蛉随想 西澤笛畝
「とんぼ」といはれると、私は直ぐ腕白時代のことが浮かんでくる、子供達にとって此上もない好ましい生物で强いとか恐ろしいとかいふものではないが、身輕く自由自在に飛びまあって、容易につかまらないそれが却って面白く、炎天下にもち竿を振り廻して彼を追いかけたり、息をこらして生捕る瞬間の興味は今でも忘れ難い思出である。
確か千代の句と思ふが「蜻蛉とり今日はどこ迄いったやら」早逝の愛児を追慕する親心そうして無我夢中で暑さを忘れ飛びあるく子供の心情をよくつかんだ句でもある。
「耳嚢」と云ふ本の中に興味ある一項がある。日下部丹後守と云ふ人の話しとして、こんなことを記している。庭の池に秋の頃、沢山の蜻蛉が集まって水面を楽し気にあちらこちらと飛びまあっていると、池中に棲む数十匹の鮒が水中に浮きつ沈みつしながら、とんぼと同じ様に泳ぎまあったといふ、するととんぼ達も夢中になって、勢いよく群れ飛ぶ中に、疲れてかあわれにも、水面に次次と落ち込んで、もがき苦しむ處を数多の鮒がよき餌食よと、いはん計りに爭って喰いたるよし、まことに不思議の出来事である云々と。
ところが又今一つ似た記事がある。「松屋筆記」と云ふ本の中に蜻蛉を捕る術として、まことに興味ある一節が載っている。それは次の様な話しである。
「新島の童が談に、蜻蛉を捕へんには、彼がとまり居たる所を目當に、此方を指して、そのめぐりを輪廻りする也、一度輪廻りをしををせたらんには、蜻蛉飛び去ることを得ず、それを、やうやうにめぐらしせばめて、たやすく生捕りにする云々。」
とかゝれている。これは前の鮒の水中に於けるその仕草とよく似た行為であって、一度ためして見たらと思うのである。
正月の追羽根、それも蜻蛉と深い関係がある。椋玉にさし込んだ羽根それは今日では五枚の約束になっているが、古くは四枚を差し込んで作られたものである。それは蜻蛉の形になぞらえたもので、夏の日、軒端に集まる蚊軍を彼は好んで喰ふ益虫である。
そこで胡鬼の板と称して木片で作った後日羽子板と呼ぶもので突きあげると、空中高く舞い上り舞い下りるそれは、トンボが蚊を喰ふ様の表現で足利時代から傳はる一種の禁厭であったのである。このように、彼も亦一役をもって此の社界に生れ出たものでまことに尊い存在といえる。
(昭和30年5月31日 森林商報 新42号)
【西澤笛畝[にしざわ・てきほ]】
明治二十二年の生まれ。日本画家、人形玩具研究家。大正四年、文展初入選。著書に「雛百種」「花鳥画の描方」「人形集成」「虫類百姿」など多数。
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