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蜻蛉と共に成長した日本の歴史    直良信夫

 地質学上の古生代【こせいだい】というと、少なくみつもっても、今から二億年前の大昔のことになる。それだのに、どういうものか日本には、その頃の遺存生物であるいろいろな動物が、現在すんでいる。中国地方の深山にいるハンザキ(サンショウウオ)有明湾や瀬戸内海のシャミセンガイ(メクヮジヤ)とカブトカニ、相模灘で採集される長者貝、やや時代は新らしくなるが、近畿や関東地方の河川にすんでいるカワネジカイなどが、そのたぐいである。ところが、それらの遺存動物の仲間であるムカシトンボというのが、(このトンボはババリア地方の中生代・ジュラ紀のタルソヘレビアに近かいものだと考えられている。)山間の渓川地域にすんでいて、それがひと頃、学者や採集家の注目するところとなつた。東京都の高尾山の裏山などでは、このトンボのでる頃になると、山では捕虫網の白い袋が、昔の合戦場をおもわせるような状景を呈して、大切な生物であることを知つている私たちをハラハラさせたものだった。
1 近頃では、トンボを縫糸のはしに結びつけて、飛ばしてあそんでいる子供たちをみかけなくなった。学校での教育がゆきとどいた賜物だと感謝している。私の少年時代には、トンボは精霊【しようりよう】さまのおつかいだから、捕つたりいじめたりしてはいけない、ときつく母親にいいきかされていた。だから、トンボを追っかけまわすようなしぐさは、ついぞしなかった。勿論精霊さまが、どんな仏さまであろうかなどと考えたこともなかった。そんなことよりは、いけないという母のきつい言葉の方が、いつも胸のうちにこりかたまっていて、手だしをしなかったという方が適切であったように考えられる。ところがこのトンボ、なかなか大謄不敵なしろもので、なるべくそこをよけて通ろうとすると、あのつやつやしい丸っこい頭を、右左にゆり動かしながら、「どうだい、坊や」といつたような、かっこうをするものである。そうなると、「このトンボめ」という反抗心が、子供心にも、ムラムラと頭をもたげたものであつた。トンボのとまっている位置の下の方から、そうっと手をさしのべて、すばやく尾部をつかめば、必ずとれるコツを知っていても、みすみす、はぎしりをしながら、通りすぎて行かねばならなかったくやしさ。その残念さをかみしめて、ふと顔をあげた眼に、あかい夕陽が、木の間をとおして、もえさかりながら沈んでゆくありさまを眺めたときなどは、子供ながら大自然の美妙【びみょう】さに、胸をあつくして、うっとりとみとれたものだった。
 紅葉と温泉と小説などで名高い栃木縣の塩原温泉には、今からおおよそ二・三十万年前には、清冽【せいれつ】な水をたたえた塩原湖があった。深度はそれほど深くはなかったらしいが、それでも湖岸に近い浅い所でも、水深は一メートル以上はあったろう。この湖のほとりには亜高山性のいろいろな植物が、こんもりと原始林をかたちづくっていた。塩原は現在でも秋は紅葉でにぎわう所であるが、大昔の塩原湖の周辺には、今日以上に落葉植物の種類が多く、かつ地勢上、早めに紅葉を呈していたことだろうから、林が紅黄とりどりに色づきだすと、それが清澄な湖水にはえて、ひとしおの美しさをそえていたことだろう。天気のよい日などには、ゆきこう白雲の影を浮べた湖面に、火のような木立のあかさがしみて、どんなにか、あでやかな景色であったろうかがしのばれ、限りないなつかしさを、私たちの心によみがえらせるのである。ところが、この湖水の堆積物中には、トンボの幼虫のヤゴが、いく種類も化石になってのこされていて、トンボの好きな私たちを、こよなくよろこばしてくれた。幼虫がいたからには、成虫もさぞかし沢山とんでいたことだろうが、成虫はとんで逃げることが自由にできるので、湖底にめったに姿をとどめなかつたのだろう。それでも、僅に一個ではあったが、成虫の翅のかけらが発見されているのを知った。が、標本があまりにも小さい断片であるために、ついにたしかな種名を判定することはできなかった。塩原火山群の火口から噴き出した、はげしい火山灰の降下で、またたくまに、湖はうずめつくされたらしく考えられるのであるが、たとえその爆発【ばくはつ】がとっさであつたにしても、天災を予知することのすばやい虫たちは、天与の翅をうちふって、とっとと逃げのびて、行ったことだろう。天地をゆるがし、天地をひきさくような、激しい火山活動のさ中に、もうもうとたちはびこる噴煙をくぐって、高く低く逃げまどったであろうトンボの大群をまぶたのうちに描くだけでも、想像に絶する壮烈さがしのばれる。
2 今から約二千年の昔、日本ではじめて、米作りの農業をはじめた古代人は、いやよいしきわゆる彌生式【やよいしき】文化をきづぎあげた人々であつた。この人たちは、まれにみる詩情にとんだ秋の愛好者でもあつた。天産物を、手あたり次第に採集してきて、炉に薪をくべながら、たのしい年月をおくっていた初期の古代人の生活は、ただ一途に、採ることだけに終始した生計であつたがために、前後數千年のうちに、ゆきづまってしまった。これではいけない。そう決心して、たちあがつたのが、この彌生式文化の民衆であった。汗を流して働くということは、それはたいへんな心身の消耗であったことだろう。しかし、みずからがつくつた生産物で、生活のきそを築き出すたのしさは、たくましい人生の、おくゆかしさを、この人々の心に深くうえつけた。こうして、彌生式文化は、とんとんびょうしに発展をくりひろげ、やがて、すばらしい國家社会の誕生にまで、こぎつけていつた。とはいえ、最初の間は、なにかにつけて、農作業にふなれであつたので、成績はおもうように、はかばかしくなかった。そこで、作ることと、採ることとを併行させて、暮しをたてねばならなかった。考古学上いくたの問題をどうたくひめている銅鈬【どうたく】(青銅製のひらたいつりがね様のもの)は、近畿地方を中心として、分布している日本古代人の遺産であるが、この遺物の面には、当時の彌生式民衆の生活暦が、線画のかたちで興味深くかきのこされている。その中には、家や舟、それから百姓仕事のあれこれが画かれ、更にまた、常に彼等の身辺で活躍していた多くの動物たちが、これまた、こくめいにしるされているのである。それらに混って、翅をひろげたまま休んでいるトンボが、すなおに描出され、中には狩猟にいそしむ一群の入々の頭上を、ゆうゆうと飛んでいる姿などもみられ、おもわず見る人の心をほほえませずにはおかないものもあった。
3 いま私は、鳥取縣泊出土という銅鈬面の図をかかげて(同じ鋳型で都合四個が鋳造されている)、すぎし日の、私たち祖先の、素朴な生活をしのぶかてにしよう。くどく説明するまでもなく、この図は三頭の鹿を、前後から人がはさみ射ちをもくろんでいる状景を主題としたものである。ところが、向って右のはしには、カメやイモリのような、爬虫類をならべて、この図の舞台が、水濕地帯であることを教えている。そして後端の人と鹿との空間に、トンボを上位に、カニを下位に配している。いうまでもなく、図の構成の天地をはっきりと示しているといえよう。この際、トンボが横向きに描出されていて、翅をひろげているところをみると、トンボ特有の、スイスイと空を滑ってゆくあの状景を、いかんなくかきあらわしているものと、看取しなければならない。しかも、その簡単な線画が、生々とした感觸をもって、ひしひしとせまってくる迫力に、私は強い魅力を感じないわけにはゆかないのである。ともかくも、こうした描寫が、既にこの人々の手でなされていた以上、人々は自身の環境について深い洞察を行い、動物の生態に関して限りない觀察をつづけていたであろうことを、くみとることができよう。日本の古い国名を、秋津洲【あきつしま】とよんでいたことは周知の事実である。この国名が、どこから出たかは、もとより十分に解明することは不可能かもしれない。(神武紀には、天皇が国見をされた時、「蜻蛉の臀せるが如し」と仰せられたとある。)が、日本でのトンボの史的消長をふりかえってみると、(雄略紀には、雄略天皇が吉野の河上の小野で狩りをされていた際に、臂をかんだ虻を、蜻蛉がくわえて飛び去ったという説話がある。)とにかく、大昔からトンボの多い土地であったことが考定されるから、トンボと日本の歴史とは、深いつながりをもって、せいせいと発達してきたものであることが、うなづかれるのである。

(昭和32年7/9月 森林商報 新57/8号連載)


【直良信夫(ナオラ・ノブオ)】
 古生物学・考古学専攻。早稲田大学古生物学研究室員を務めた。著書に「日本原始漁猟生活の研究」「蝙蝠日記」「日本産獣類雑記」「日本哺乳動物史」「古墳時代の文化」等。

直良信夫:蜻蛉と日本歴史  自筆原稿
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