蜻蛉二題         森寿和子

(蜻蛉のうた)

 机辺の書架を探って手当り次第に蜻蛉に関する歌を抜いて見ました。

   岩の上を飛びとぶとんぼ遠くゆかず目まぐろしくも暑き眞晝なり (佐々木信綱)
 蜻蛉は夏から秋に棲息する昆虫で、岩の上を径復して飛んでいるとんぼが目まぐるしくて一層暑い。と暑さを強調した歌であります。

   くれなゐの靖蛉飛びかひみぞ萩の花さく見れぱ秋は来にけり (千種有功)
 赤とんぼが出るのは暑さの峠を越した秋口の頃からで、赤靖蛉を見てもう秋が来たのだたと、期節を感じた所がとらへてあります。

   風のうえに身もかろらなるかげろうの心重さをかへよとぞ飛ぶ (大隈言道)
 事業に失敗して心が沈んで居る時、蝟蛉が私が風に吹かれて飛ぶように心を軽快にお持ちなさいと諌めておるように見える、と云つたようた意味。

   乱れつつさわげる間にも身をとめて同じ處に飛ぶあきつかな (大隈言道)
 風が吹いてあたりの草木がざわざわと動いている時、それにとまつたとんぼは同じように動きながらも遠くへ逃げては行かない。つまり一旦こころざした事業は一時失敗に終わっても閉口垂れないで、勇気を出して継続しなさいと励ました歌であります。

   赤とんぼ早く現はれ捕って食へ昼を来て刺すこの藪蚊ども (窪田空穂)
 秋になると藪蚊が昼のうちから襲って来て刺す。赤とんぼ早う出て来て食べてしまって呉れと、人間がとんぼに援けを求めています。
 まことに稚拙な解ながら初心の方のためにと力添えました。
 蜻蛉は古来「あきつ虫」「あきつは」「かげろう」などと歌に詠まれ、普通「とんぼ」「とんぼう」と稱せられ、地方によって種々の方言も行はれております。蜻蛉はその体躯の華奢に似合わぬ精悍で、幼虫時代は「ヤゴ」とよばれ、グロステクな風姿で水中をなさばり、小虫や小魚を捕食し、成虫となっては蚊蠅などを食餌としています。「鬼ヤンマ」「銀ヤンマ」などと云う大きな種類は、家蠅をまたたく間に二十匹も捕食したと記録されております。太古には蜻蛉類も非常に大形で、十糎にも達する化石が発見せられています。

(蜻蛉のしるし)

 「蜻蛉は家の商標だから捕ってはならない」「とんぼを捕ると瘧(おこり)を病む」と子供の頃から嚴しく戒められて、私は蜻蛉を見ると一種の恐怖とも崇敬とも分からぬ感情にとらはれます。森林[モリリン]が日の出蜻蛉を家の標識として選んだのは何時の頃か又どういう動機からか聞きもらしましたが、私が生まれた時には既に採用せられて、その商標の附された木綿縞が広く全国に販売せられておりましたから、随分古くから用いられたものと思はれます。私は本年七拾歳を迎えました。先祖は誰と名乗る程誇らしい系圖は持合わせませんが、本家の森平兵衛家には、清和源氏の流れをくんで、以後三十数代の系圖を藏し、森武藏守、本能寺で勇ましく戰った信長の侍童森蘭丸なども一族であったと聞かされて、子供心にも嬉しく感じたものであります。以後分家帰農して代々辰巳屋林右衛門を名乗り当主で八代を數えます。その四代目林右衛門の時より現時に至る迄継続して居る繊維を扱ふ商売を始め、その繊維も、時代に添って幾変遷しました。昔は女子供が夜なべに爐辺で糸車廻して撚り上げた「木綿(きわた)の糸」に始まり、紡績が発達して機械糸となり、羊毛糸となり、今日の化学繊維と変化しつつも、辰林を森林と改稱して終始一貫繊維に離れず今日に至って居ります。恐らくはその消長と共に繊維滅ぶる時は森林の滅ぶる時でありましょう。然し生活必需品たる繊維は恐らく人間が裸体で暮らさぬ限りは必需品でその心配はありますまい。
 森林今日の隆盛は一にお得意様各位の御支援の賜物に外ならず、今後共ますます各位と共存共栄、日の出蜻蛉の精悍さを発揮して、繊維の世界を守り立て、繁盛の道を辿りますよう老の腰を七重に折って懇願申上ます。

(昭和34年1月1日 森林商報 新67号)


【森寿和子(もり・すわこ)】
 歌人。歌誌『蒼原』を編集す。歌集『大江集』がある。当社専務・森一成の母堂。

森寿和子:蜻蛉二題 自筆原稿
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