ヤゴと30年        宮地伝三郎

 トンボの幼虫ヤゴは、胴体が太くて、その親虫の飛行能率に徹した近代的形態と、頭全体を眼にした感性的な印象からは、連想しがたいほど、もっさりしている。
 小さい池沼の岸近くや、もっと大きい湖では、浅い入江などの底土を、採泥器でとりあげて、ふるいにかけると、残ったごみや水草の間で、六本の足をのろのろと動かすヤゴがみつかる。砂底や、ふるいの目をすっかり通りぬけるような、きめのこまかい泥がたまった湖心部からは、めったにとれてこない。
 その外観は鈍重だが、ヤゴの食品リストには、オタマジャクシ、幼魚、いろいろの昆虫などがあがっている。いずれもかなりの運動性をもつ生き餌である。直腸から水を噴出するゼット式推進によって、近い距離からなら、ねらいをつけた獲物に、不意におそいかかって、その強いあごで捕える機敏さは、ちゃんとそなえているのだろう。
 湖底にすむ動物の種類や数量をもとにして、湖の生産型をきめる目的で、ゴムボートをかついで、全国の湖沼めぐりをしていた頃、私はずいぶんいろいろの場所で、ヤゴをつかまえた。また、陽のまださしてこない湖のほとりで、護岸の石垣や棒杭などにつかまって、脱皮のもがきをするヤゴも見かけた。背部の皮が割れて、複眼をのぞかし、頭を抜き、足を抜き、はねと腹部をのばし、一休みして、やがて飛び去る。水中から空中への、この生活革命は全く素晴しい。
 その頃、昭和のはじめだが、日本の陸水動物の研究は初歩で、私が湖底からとってきた昆虫の幼虫に、学名をつけることは、ほとんどできなかった。やむなく、外国の書物によって、大体の見当をつけた。湖底動物のうちで、数量の大きいユスリカのボウフラ、イトミミヅ、貝類などにくらべると、ヤゴは肉食動物だから、数がずっと少なく、分布範囲も限られているので、私の研究にとっては、あまり重要な部分ではなかったが、参考にしたのは、ウェーゼンベルグ-ルンド博士やニーダム博士などの業績だった。
 老年のウェーゼンベルグ-ルンドには、後に、デンマークの彼の家に招かれて、支那趣味にかざられた部屋で教えをうけたが、ニーダムには、1928年に大津臨湖実験所で会った。支那大陛のトンボを研究したり、講義をしたりしての帰国途中ということだったが、多くの論著をもつこの高名の淡水生物学著はガッチリしたリンカ一ン型で、かけ出しのわれわれにヤゴをかって親虫を出す装置のこと、工場や都市の排水が生物に与える影響などについて、こまかい説明をしてくれた。 外国の学者が、その国での分類作業をおえて、研究を世界的規模で進めているのが、私達には手のとどかないことのように思えて、うらやみ、残念がりもした。
 そして30年、日本の淡水動物の分類学は面目を改めた。トンボやヤゴについては、止水性流水性を含めて、120種に近い検索表が、朝比奈正二郎博士らの努力でできあがっている。これからの若い陸水生物研究学者は、分類学については、私達のように、外国の学者にたよらなくてもよい。世界史的には、大きい変化の30年だったが、日本のトンボの研究は、その間を、実にゆっくりと歩みつヾけたことが顧みられる。80才をこえたトンボのニーダムは、いまもかわらずトンボの論文をかきつゞけ、その息子も、水に関係して、カリフォルニアでマスの研究にはげんでいるらしい。眞夏の池の面を、いつとも知れず、ひざしが移るような変化である。
 しかし、外国でのトンボの研究は、その社会生活に立ち入って、行動圏の広さや、なわばりのことなど、われわれのまだ手がけていない方向に発展しつヽある。トンボやヤゴの分類では、ニーダムに追いついた、と満足するわけにはゆくまい。さきがけて新しい道をひらくことは、なにごとにつけてもむつかしい。

   (昭和33年1月1日 森林商報 新61号)

【宮地伝三郎は明治三十四年広島県の生れ。東大動物科卒。理学博士、京大教授。魚、猿、昆虫等の生態学を研究し「有用動物学」「動物の生態」「動物通信簿」など多くの著書がある。戦后、フィリピン、イタリア、ソ連、中国等を視察し、また学術会議会員として学界の発展のため活躍した。】


宮地伝三郎:ヤゴと30年   自筆原稿
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