北原白秋ととんぼ         木俣 修

 北原白秋の第一童謡集に『トンボの眼玉』というのがある。大正八年十月十五日の初版である。私は、この初版本を大切に持っている。
 白秋が子供たちのために芸術的な匂いの高い童謡を与えようと志したのは、『赤い鳥』という児童芸術雑誌の出た大正七年であったが、その誌上にのる新作童謡は、当時、田舎の小学生であった私の胸をおどらせた。その第三巻第三号(大正八年九月号)に出た童謡に「蜻蛉の眼玉」というのがあった。

蜻蛉の眼玉は大(でっ)かいな、
銀ピカ眼玉の碧眼玉、
圓(まア)るい圓(まア)るい眼玉、
地球儀の眼玉、
忙しな眼玉、
眼玉の中に、
小人(こびと)が住んで、
千も万も住んで、
てんでんに蟲眼鏡で。あっちこっち覗(のぞ)く。
上向いちゃピカピカピカ。
下向いちゃピカピカピカ。
クルクル廻しちゃピカピカピカ。
玉蜀黍に留まれば玉蜀黍が映る。
雁来紅(はげいとう)に留まれば雁来紅が映る。
千も万も映る。
綺麗な、綺麗な、
五色のパノラマ、綺麗(きイれい)な。
 あともう一節あるが、蜻蛉の眼玉を主題とした新鮮無比なこの童謡を私などはすぐに覚えて、自分勝手な節をつけてしきりにうたったものであった。
 童謡集の名は、この童謡の名をとってつけられたものであったわけである。函入で美しい装幀、彩色のある口絵が何枚も入ったアートの本文紙、すべてに子供のたのしい夢を呼ぶに充分な本であった。それが四十年近くもの時を経て、今もほとんどそのままの色と形で私の手元に保存されているというわけである。
 巻頭に三色判の矢部季のとんぼの眼玉の絵があって、「蜻蛉の眼玉」の童謡が入り、更にその次に「夕焼けとんぼ」という童謡がつづいている。それは
大きな、赤(まァか)い蟹が出て、
藺草(いぐさ)をチョッキリちょぎります。
藺草の中から火が燃えて、
その火が蜻蛉(とんぼ)に燃えついた。
蜻蛉は逃げても逃げきれぬ。
 といったところからはじまって、夕焼けに染められたいろいろの草の上を蜻蛉が逃げまわるところをおもしろくうたったものである。
 古くからの伝承童謡の中にうたわれて来た子供らのともだちの蜻蛉を、白秋は新しい詩人の眼で、そして童心にたちかえって、こういう風にうたったものであった。
 蜻蛉はしかし、白秋が童謡ではじめて用いた詩材ではない。「蜻蛉の眼玉」の制作より少し前の歌に
蜻蛉つり昼はさほどで無けれども日さへ暮るれば涙ながるる
 といった作がある。これは蜻蛉つりをした童のころをなつかしんでなしたもので、一日中蜻蛉つりにほっつき歩いて夕方ごろになると急に母親などが恋しくなって涙が出て来たという、わらべごころを主題としているのである。
 その他にも
日の盛り細くするどき萱の秀(ほ)に蜻蛉とまらむとして翅(はね)かがやかす
ややに避(よ)けて蜻蛉日かげにとまりたりそよぎかがやく青萱のもと
 などという真夏日の烈日光のもとの蜻蛉の動と静とを捉えたすぐれた歌が見られる。いずれも第三歌集『雀の卵』の中に入っているものである。
 愛の詩人、白秋の歌や詩には蜻蛉にかぎらず、昆虫、魚介の小さな生命を愛した佳作がいくらでも見られるのである。
 (昭和31年11月27日 森林商報 新53号)

【木俣 修(1906ー1983)】
 昭和初期の歌人、国文学者。滋賀県生まれ。1935年、北原白秋の「多摩」創刊に参画。53年、「形成」を創刊、主宰。歌集に「高志(こし)」(1942年)、「冬暦(とうれき)」(1948年)。近代短歌史研究として「昭和短歌史」(1964年)など。

木俣 修:北原白秋ととんぼ 自筆原稿
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