とんぼの太刀 五味康祐 宝山流の兵法書を見ると、表太刀の一つに「蜻蛉返」といふのがある。どういふ使ひ様をしたのか、「極秘の太刀なれば口伝」とあって、唯一人の弟子にしか相伝しなかったものらしい。詳しいことはだから分からないが、同じ表太刀の條項に「鋒返し」「浮舟」などの名がある所を見ると、中条流に発したものではなかろうか。宝山流の名手として後世に知られた人では浅田九郎兵衛なる武芸者がある。讃州金光院に寄宿してゐた十七才の此(ころ)、宮本武蔵の門人澤泥入といふ小者と立合って、この「とんぼ返し」で勝ったといふ。後に島原の乱でも誰かの手に属して高名が有り、又、作州森家に仕へて禄二百石を受けた。 或る時、北国の浪人・三間与一左衛門と稱する者が作州に来て、居合いの指南をし、大勢の門弟を擁して却却(なかなか)に勢ひがあった。与一左衛門は十六才より十二社権現(国所詳ならず)の神木を相手にして「二十年抜きたるに、終に神木枯れたり」といはれる。流を水鴎流と名づけて世にひろめ、作州で剣術を好む輩が大勢試合したが、誰一人勝つ者がなかった。 「九郎兵衛どのならでは最早かなうまいぞ」 と人々がすすめるので、立合って勝負をすることになる。 九郎兵衛の弟子どもは不安に思って、 「先生、三間の居合は、諸国に勝つ者なしと承ります。どうしてお勝ちなされますか?」 と問ふと、 「心配致すでない。抜かせて勝つ迄ぢゃ」 と九郎兵衛は事もなく言った。 この言葉が与一左衛門の耳に入った。すると彼は、「浅田九郎兵衛は聞きしにまさる上手也。其一言にて勝負はしれたり。我の及ぶところにあらず」と遂に立合はなかったといふ。 ――この辺の機微は、兵事家でないと理解出来ないが、大体、居合は鞘の中で勝つを以て奥義とする。達人ともなれば、居合はぬ前から勝負を読みとるからだろう。居合抜きに斬りつけて、尚、相手に二の太刀を振はすやうでは居合斬りが失敗した証拠だから、「抜かせて勝つ」と九郎兵衛が言ったのは、初太刀の居合を躱(かわ)してみせうるといふ意味だ。それなら確かに与一左衛門の居合が負ける。 門弟らは併し、当初はこの与一左衛門の言に不満を懐いたやうであるが、間もなく九郎兵衛の精妙を目のあたりにした。作州侯の御前で、小川に浮かべた桃を両人が試斬りしたのである。三間与一左衛門の抜打ちで斬れたのは桃の実の半分だった。然も桃は沈んだ。九郎兵衛が斬ると、波紋一つ立てず、桃は静かに少時流れて行って、岩に当ったとき、眞二つに割れてゐたといふ。太刀の打ちは、とんぼの尾にて水面を打つこころ也、といふ有名な言は、実はこの時に作州侯の御前で、九郎兵衛が言ったのだとも伝へられる。如何にも妙旨を伝へた名言である。 (昭和30年10月18日 森林商報45号) 【五味康祐(1921−80)】 大阪生まれ。「喪神」(1952)で芥川賞。柴田練三郎、中山義秀と共に剣豪ブームを起こす。「柳生武芸帳」(1956−58)、「柳生石舟斎」(1962−64)など柳生ものが代表作。クラシック音楽、麻雀、占い、野球など多趣味。 |
五味康祐:とんぼの太刀 自筆原稿 | |||
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