芸者トンボ 源氏鶏太
小説の主人公の名前には、いつも、苦労させられる。ましてそれが芸者となると、私の小説がいわゆるユーモア小説なので、月並では困るし、読者に不愉快な感じを与えるようでは始末が悪い。私の小説「坊ちゃん社員」に出てくる芸者は、酒飲みだが、明るくて、正義感が強く、しかも、負けず嫌いである。
それで、それにふさわしい名を考え「とんぼ」とした。そう云う名の芸者が、実際にあるかどうか、私は知らない。しかし、青空をすうっすうっと飛んでいるとんぼには、清潔感があって、なかなか、よろしい。で、そうつけたのである。
かりに、それを「秀駒」とでもつけたら、あまりにも芸者らしくて、面白味が無いし、小説中の人物としては、躍如としたところが欠けてくる。その点、とんぼには大衆性があって、私は、作中人物の名としては、「三等重役」中の浦島太郎さんと同様に、成功した方ではなかろうか、と思っている。
また「坊ちゃん社員」の中で、芸者の名を、「とんぼ」とつけなかったら、と考えてみる。かりに「栄竜」とか「小さん」とか、そんな名をつけたとしたら、あの芸者の性格が、すっかり変わってくるに違い無い。すくなくとも、ああ、軽快に動かすことが出来なかったであろう。
しかし、私は、ここまで考えてから、とんぼと名づけた訳では無い。大部分が直感である。こんどの時も、女房に
「おい、芸者の名で、いいのが無いだろうか」
と、相談を持ちかけたら
「とんぼ、でどう? なかなか、いいわよ」
と、即座に答えたのである。
「うん、それがいいな、では、それにきめよう」
と、きまってしまった。
この小説は映画にもなった。いろいろの人物が出てくる。中で、昭和太郎は、誰でも覚えてくれるだろう。その次に、忘れない名は「とんぼ」だと思っている。私自身にしてから、あの小説を書いて、すでに半年以上経過しているので、登場人物の名は、たいてい忘れてしまった。今でもはっきり覚えているのは、昭和太郎ととんぼだけである。とんぼの名は子供でも覚えてくれるに違いない。
(昭和29年3月29日 森林商報29号)
【源氏鶏太 (1912−1985)】
富山市生れ。大阪で会社員。1947年「たばこ娘」(オール読物)で認められ、56年退職まで二足のわらじ生活。51年「英語屋さん」で直木賞。代表作「三等重役」「定年退職」など。
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