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トンボ歳時記 古川 晴男 蜻蛉や 取付かねし草の上 芭蕉風が吹いているのである―どうも、秋風とするのがいちばんぴったりくるのだが。そうすると、トンボはアカトンボでなければならない。まだ枯れ切っていない緑色の草でもよいだろう。黄ばんだ枯れ草でもよい。草の葉がはたはたとゆらぐ。止まろうとして、止まりかねているまっ赤なトンボ。赤トンボは芭蕉自身ででもあるだろう。草は、彼が「この道につながる」といった俳諧道のきびしさででもあるだろう。芸術修業の困難さ―そうしたものを芭蕉は風に押し流されているアカトンボの姿に托したのであるかもしれない。このように見てくると、トンボは風に逆らっているのでなければならない。そういうことがあるのだろうか。 メダカは小川の流れに逆らって泳ぐ。これをむずかしいコトバでいうと「走流性が正(プラス)」であるという。これはメダカが好むと好まないとにかゝわらず、そうなるのだ。飛んで灯に入る夏の虫も、「走光性」が「正(プラス)」なるが故に、思わぬ翅を焦がす宿命を擔っている。トンボに応用すると、「走風性が正である」ということになり、この性(さが)のゆえに、とんでもない所にふき流されないでもすむというわけ。これらは本能(ほんのう)と呼ぶもののあらわれで、本能は生物が身を守るために天の与えるものである。乳房にすいつく赤子も、これに支えられて栄養失調にならないですむのだ。 アカトンボが群舞する時、皆が同じ方角を向いているのも、このしくみによるのだ。 蜻蛉の藻に日を暮す流れかな 凡兆 となると、同じく秋のトンボにしても、アカトンボではぴんと来ない。藻の多い流れの上にはアカトンボは居ないからだ。これは体が細く、体も翅も黒一色、ハグロトンボだ。夏が訃く、秋は喪服を身につけて―そんなトンボがハグロトンボだ。ひらひらと翅を秋の日にひらめかせ、冷たい流れの水草を求めて止る。風が吹く。ひらひらと舞い立つ。また止る。つるべ落しの秋の陽はすぐ落ちる。アカトンボは水溜りにばらばらと卵を生み落すのだが、ハグロトンボは水草に止って、尾の先の尻劔を茎にさしこんで卵を茎中に托す。古人もそんな風景に気がついたのであろうか。 亡き人のしるしの竹に蜻蛉かな 几董 蜻蛉や 何の味ある竿の先 探丸 トンボは棒や竿の先が好きだ。トンボの足は歩くためにはほとんど使われぬ。トンボは飛行という運動法しか知らないものゝようだ。すぐ飛び立つためには、尖ったものの先に止まるのが便利だ。たぶん流体力学の大家にきいたら、翅を押す風の方向がどうのと、リクツがつくと思う。亡き人のしるし―とはやはり秋のかんじで、トンボのお腹の、目に沁みるような赤色がかえってあわれをさそう。これは短詩でなければ現しえない、リリシズムの極致ではなかろうか。 (昭和29年10月30日 森林商報 新36号)
【古川晴男[ふるかわ・はるお]】 1907年東京生まれ、1931年東大理学部動物学科卒。1941年理学博士。執筆当時(1954年)東京学芸大学教授。昆虫学専攻。「蟻の結婚」「昆虫の国巡礼」「アリの生活」「昆虫採集」など著書多数。 |
古川晴男:トンボ歳事記 自筆原稿 | |||
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