※【】は原文では振り仮名(ルビ)。斜体及び《》は編注

  トンボ正月          藤澤衛彦

 日本の粋【すい】ことばに、『とんぼの鉢巻』という場合、『先の見えない人』のことで、トンボの眼は、天井を向いているから、鉢巻すれば、それより先の方は見えない、すなわち先の見えない、お先まっくらな無粋の人となる。
 みんなの知る通り、トンボの複眼は大形で両側にあり、その面は球状に隆起している。これが問題のトンボの眼玉で、科学的伝承によると、トンボは、この大形両側上向き球状のゆえに、蚊千疋を一度に発見することができるので、民俗伝承も、いつのころか、『トンボは病気をなかだちする蚊を食う益虫だというので、そのトンボ頭【がしら】になぞらえて作った、ムクロジの実に、山鳥の羽を三本つけた羽根を、突きあげて蚊をおどろかし追いはらう呪術【まじない】が起った。それが正月あそびの羽子突のゆらいだ』と、「世諺問答」の著者は記し伝えている。
 その由来によって、今の呼名の羽子板のことを、昔は胡鬼板【こきいた】といったので、胡鬼【こき】は、エビスの鬼、つまり異国からやってくる邪気(邪鬼)のことをいう。あの、七草の呪言【まじないごと】に、  
七草なづな、唐土【とうど】(燈土)の鳥(毒鳥)が、日本の土地に、渡らぬ先に、ストトントントン七草なづな。』
と唱えられるエビスの鳥以上、理窟に合った疫病の媒介虫は蚊であるとされた。そこで、蚊をトンボで追いはらう儀式が發達し〃胡鬼はらいの習俗が行われたのであろう。
 その起りは、今から、千三百四十五年前(西暦七一四年)の立春の日のあけがた、御所の神泉苑の水辺ではじめられたトンド(燈土)の儀式の一そう原始的な形の呪術がもちきたしたのかもしれない。
 トンドという行事は、ところによって、その呼び名がいろいろにいわれている。サギチョウ、サギッチョ、オンベヤキ、サイノカミヤキ、サンクロウヤキ、そして廣く、トンドヤキもしくはトンド、なまってドンドとも呼ばれる。
 ドンドという意味は、庭火を焚く地域つまり燈土【とうど】ということぱがなまったもので、この狭い土地のかぎりのなかで、小正月(正月十五日)に、正月様(歳神)のために使った、ゴヘイ(御幣)、松、シメカザリなどを焼いて、歳神を御送りする習俗で、オンベヤキと呼ばれるのは御幣焼【おんべやき】ということ、トンドというのは、この火祭に焼ける竹の節のはねる音だとも解釋されてきている。後には、正月の遊びにつかった毬杖【ぎっちょう】を三つ組みあわせて、くぎりをっくったことから、この正月行事をギッチョウと呼ぶようになったのだといわれる。毬杖【ぎっちょう】という遊具は、色糸を巻きつけたちょうどホッケーのスティックのような、槌形の打棒で、屋外で、木製の毬を打つ遊戯の呼名てあったものを、正月の飾物を焼く儀式の名にしたのだともいわれるが、ほんとうは、中国の明帝が、仏教と道教の争いを止めさせたいと、その信者たちを白馬寺の南門に集めて、その何れが尊い教えであるかを比べて勝負を決定させるため道教の経典を右の壇の上につみかさね、仏教の経巻を左の壇の上につみかさね、栴檀香【せんだんこう】に火をつけて右と左に火を移したところ、右壇の道経の経典がめらめらと燃えあがった。そこで、道教の道士たちは、天にのぼり火に水をふくます術を行って、これを防ごうとしたが防げず、経典は餘さず焼亡してしまった。ところが左壇の仏教の経巻には、ふしぎや、五彩の光雲たなびいて、栴檀香の火をはねかえしたばかりか、五色の雲は更に経巻をめぐり巻いて蓋のように守ったので、少しも火の被害がなかった。このありさまに、天子は、『左義長【さぎちょう】』(左の義まされり)とおっしやって感嘆なされ、その式に参加した道教の道士千百五十一人を得度せしめて仏教の坊さんにされたといういわれによって、日本の神泉苑のサギッチにも、  
とうとやサギッチョウ(左義長)
ほうじょうじゅ(法成就)の池にこそ
と謡いはやすのだといい伝えている。
 ところが、そんな話は、あてにならないといって、陰陽【おんよう】博士の安倍清明という人は、『三毬杖焼は三毒退治のためにするのだ』といいだし、三毒は、異国(とうどー唐土)から、やってくる胡鬼【こき】という邪鬼(邪気)が持ってくる三種の病毒だと説明している。
 正月の飾り物が焼かれるサギチョウが、日本で朝廷の儀式として行われたのは、後花園天皇の永享四年(西暦一四三一年)の正月十五日で、この日の儀式は、青竹を樹て、台を三角に組み、竹葉をかぶせ、扇を結び、幣をささげて焼きはらった。これをまねた庶民のサギッチョは、竹に三本の綱足【つなあし】をつけたり、または竹三本を足にしてオシンメイ(シメかざり)を三角に積んで焼きあげた。三角はすなわち火の表象で、この浄火で、餅をあぶって食うと、すべての邪気がはらわれ、一年中わるい病気にかかることがないと信ぜられてきたのである。
トーンド トンド
火の山きずき
トーン ドトンド
火にきよめ   はらい申そう
 トンドの火で焼いた餅は、この時、あらかじめ用意しておく三角の板(これも火の形をあらわす)にのせて、『ふう、ふう』いいながら突き上げ、
胡鬼【こき】
はらい胡鬼はらい
 とよばわってから、さましながら食ベれば、すなわち胡鬼(わるい病気)のわざわいからのがれるといい伝え、こうして祓いおわると、この行事に関係した、こどもたちは、鳥小舎大将【とりごやたいしょう】(この行事のこども頭で、胡鬼を追う行事のために一晩寝起きする手造りの藁小舎を鳥小舎と呼ぶ。そこの大将の意味)の音頭で、こどもたちは、声をそろえてうたう。 
長や 長や(サギチョウのいみ)
お松さんと
御幣さんと
来年もござれ”
 こうして、サギチョウ行事はおわる。
 このサギチョウ行事の餅突きこそ、ムクロジの実に山鳥の羽三本植えて、つくりあげた、正月羽根つきあそびの羽根であって、ずっと昔は、胡鬼祓いの式板(儀式用の板)につかった、いわゆる胡鬼板【こきいた】で、ムクロジの実の羽根は、すなわちトンボのあたまにかたどったもの、トンボは蚊を食う益虫であるので、三毒鳥をはらう呪いに、胡鬼板に、その手製のトンボ頭【がしら】が乗せられて、ポン、ポーンと、空高く突きあげて、『胡鬼はらい』につかわれた。その三角の板に竹で手をつけた変形の進化が、細長い左義長の板と呼ばれるものから、正月遊びの羽子板となって、現にその伝承の種々な羽子板を、各地に伝承しているのであった。
トンボ トンボ
トンボが焼けたら
おれげいさ とまれ (茨城)
 と、童唄にうたわれるものは、たまたま、トンドが焼けたらの名残りを存するもので、
トンボの目玉に 灸すえて
それでもとぷなら とんでみろ
 というカラカイ唄は、蛙の唄が、トンボにうつったもので、トンボの目玉は、蛙の目玉より、くっついているところに特徴があるが、どこか似ているところを、こどもたちは見つけてうたったもので、本来の蜻蛉歌【とんぼうた】は、
トンボ トンボ とまれ
飴かって棒だすど。 (千葉)

トンボ とまれ
飴屋の前で
菓子買ってくれす。 (静岡)

トンボ トンボ 法度【ほっと】ほっと
高いトンボ 法度ほっと
低いトンボ 通れ通れ (兵庫)

トンボ とまれ
【とと】のさいで飯【まま】くわす
トンボ とまれ (大阪)

トンボ来い 酒のまそ
酒のさかなに何くわそ
くちなの干ぼし かえるの干ぼし (奈良)

トンボ とまれ
【はい】とつて 食わそ
蝿がいやなら めしくわすぞ (高知)

トンボ トンボ おとまりなされ
稲が熟【う】れたら 餅ついて食わす (徳島)

蜻蛉【へんぷ】 ちょじゅう
石ン頭【かつら】とまれ
一とまれば取ってくりゅう (長崎)
 以上のように、こどもたちの、かあいらしいだまし、おどし、すかしの上に構成されていることが普常で、東北地方の蜻蛉歌には、このだましや、おどしのない、こどもの願いのかけられたものが見られる。
蜻蛉【あけず】 あけず
一本橋さ とまれ (宮城)

蜻蛉【あけず】 あけず
おれの木さ とまれ (福島)

蜻蛉【あけず】 ポッポ
はり ポッポ
なんばん畑【ばたけ】さ とゥまれ (岩手)
 この地方で、トンボをアケズという名で呼んでいることは注目される古い名だ。『神武天皇三十一年四月、天皇巡幸して国見し給はれた時、なほ蜻蛉【あきつ】の臀 【となめ】する如し』と古典が記した伝説のアキツは、豊秋津島【とよあきつしま】という日本の別称アキツに起ることはもとよりで、古来、日本の古地図が、日本の形をトンボの形であらわしているのは、この伝説時代の呼名によるところでもあろうが、また一つには、トンボの性能が、異国わたりの三毒邪氣を防ごうとする、平和時の国防を表徴しているものかもわからない。(三三、一二、二四)
《編注:下線部(ナメ)、ロ偏に占。》

(昭和34年1月1日 森林商報 新67号)


【藤澤衛彦(フジサワ・モリヒコ)】
 民俗、歌謡、児童文学の権威。明大教授、日本児童文学者協会々長その他を歴任。著書極めて多数。

自筆原稿(22頁)はここから



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