赤トンボの旅        中條道夫
 トンボ類の姿を一般の人々が目にする様になるのは、毎年森ももうすっかり闌けた4月の中〜下句、草木の新緑が目に染み始める頃でしょう。台湾などですと、お正月年始廻りのホロ酔い加減の鼻先を、ギンヤンマが悠々と掠めて行ったりするのてすが、今の日本では冬はもとより、春先きでも多くの人々がトンボの姿を見かける事は先ずないでしょう。然し5〜6月ともなれば夫々の土地に見られるトンボ類のあらかたのものが出揃い、それ等が7〜8月を盛んに飛び廻ってセミ類と共に夏の景物の最たるものになる事皆さん先刻御承知の通り。余程特殊な人ででもない限り、少年時代の或る夏をトンボ釣りに熱中した楽しい想い出を持っていない人はないでしょう。その長い夏の中を炎暑もものかわと賑やかに活躍していたトンボ類も、9月の声を聞くと共にめっきり姿が減って来て、やがては赤トンボの類が、仲秋の澄み渡った青空の下、清風に乗って中空を軽やかに群飛乱舞するのを見るだけになります。年々歳々相同じ風景ではありますが、爽涼の秋気に一点の華やかな紅を点じる赤トンボ類の姿は何とも棄て難い趣のあるもの、今年も亦その姿を見る季節になりました。皆さんと共に、往く秋の感慨の一端を彼女等の可憐な姿に括したいものです。
 処でそのアカトンボに就いての事なのですが、先日或る友人から“アカトンボは秋になって始めて出て来るのか?”と云う質問を受けました。そう問われてみると、成る程この類の成虫の初期の生態には、未だ一般に余りよく知られていないものがあるように考えられるので、その友人に答えた処をここにも紹介してみましょう。
 アカトンボ類(ナツアカネ・アキアカネ・マユタテアカネ・マイコアカネ・タイリクアカネ等数種類のアカネトンボ類の総稱)は平地の池沼や小川の中で仔虫(ヤゴ)の時代を過し、早いものは5月下旬、遅いものでも6月末位迄には成虫(トンボ)になりますが、成虫になったばかりの頃は体色が黄色っぽくて、凡そアカトンボらしくありません。これがその儘その辺で生活し乍ら月日の経過と共に赤くなって行くのなら疑問も起こらないのですが、成虫になると間もなくその辺から姿を消して了うものですから、これ等と秋のアカトンボとの繋がりがなく、その為に“アカトンボは秋になると突然現われて来るのか?”と云う事になるのでしょう。然しそれも無理からぬ事、実はアカトンボ類はその大部分のものが、成虫になって体が一応固くなり、翅がしっかりして来ると間もなく山へ向かって旅立って了うのです。そして7〜8月、平地に生活しているあらゆるものが炎熱に喘いでゐる頃は、涼しい山で食べ遊び太っていると云う眞に羨ましい様な企活を送ってゐるのでして、謂わば山へ楽しい避暑旅行をしていると云う様な事なのです。ですから夏に2000メートル前後の山々へ登った事のある人々なら、そこで沢山なアカトンボ類の活躍を見て居られる筈です。この山の中での生活の間に、始め黄色っぽかった体色も次第に赤味を増して来て、段々アカトンボらしくなり、体の内容も充実して来ます。やがて平地に朝夕涼風が立ち初める頃になると、もうそろそろ寒さの訪れ始めた山を後に段々と平地へ降って来るのです。そして眞赤なアカトンボになって平地に到達すると間もなく生殖活動が展開され、やがてその使命(交尾・産卵)を全うしたものから順に姿を消して行く(今度は冥路へ旅立つ)のです。山への旅に引換えて平地への旅は、子孫存続の為の難行と、そしてその先には死の予定された眞に厳しいものですが、然し山への旅にしても将来の為にどうしても山で暫く生活をする事が必要だからの旅、然も往復共に色々な危難の非常に多い、決して楽な旅、避暑旅行などと云う俗語が当嵌る様な安易な旅ではないのです。大昔から先祖代々無心に繰り返している旅なのではありますが、その苦難に満ちた長い旅路を思いやると、他人事ならず、吾々をも含めて、生物の宿命の辛さと云うものが今更の如く身に滲みる様な気がします。

 中條道夫 



   (昭和33年10月27日 森林商報 新66号)



中條道夫:赤トンボの旅   自筆原稿
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